浮遊する文字たち

 

書のなかの文字性

 

 「この作品はきわめて書に近いといえるでしょう。」というと書家の方のお叱りを頂戴するでしょうか?

  書のような絵、絵のような書。前回紹介した「ジュラ紀」もそうですが、ときどき無意識に絵のなかに解読不能な文字を入れたくなります。暗号のような文字。正確にいうとそこに文字があるという存在の気配です。文字は言葉を形成する要素ですから、文字は何かを象徴したり、意味を表記することができます。前衛書道というジャンルはありますが、しかし書という立場であるなら、テキストを表記する文字の本質を否定することはできません。

 つまり、最終的にはどんなに達筆で書かれた書であっても、かならずだれか?読める人によって文字ならば解読されなければなりません。「あ」であるとか「い」であるとか。あるいは表意文字である漢字の場合なら、「木」であるとか。それはそれ以外のことではないということでもあります。そういうことからすると、前衛的な書の場合なら、最初はとっても解読できそうにみえるかもしれないけれど、たとれば勉強して目が慣れてくれば、いつかはその文字がなんという文字であるかを読みきることができるでしょう。もしできなければ、直接作者に尋ね、なんという文字がかかれているのかを確かめることができるでしょう。

 

 

絵ののなかの文字性

 

 この絵でわたしが表現したかったのは「そこに文字がありそうな気配」なのです。ひとは文字を読めるようになれば、知っている文字ならば、無意識に読もうとします。その知りたい文字が紙の上にじっとしていてくれなくて、ふあふあと浮かんでいる。しかも文字らしき形のようでもある。くるくると尻尾のようになったり、渦潮のようになったり、のびきったり、なんともさまになっていない線たち。「文字がありそう」とはそこに「伝えたい意味がありそう」だと早合点して思うことです。しかしもともと文字はありませんから、当然意味を読み取ることはできません。そして意味を探せば探すほど確定できなくなっていきます。このあたりが、書とわたしの水墨画が同じ紙と墨を使っているにもかかわらず、まったく異なるところではないでしょうか?

 

では改めてご覧ください。100号の「浮遊する文字たち」です。