ローテンブルク

 

これは作品の一部、左下の部分である。全体がどのような作品か想像してみて欲しい。

制作していたとき、意識は細部と全体を行き交う。特に着彩の作品の場合は気になって、なかなか描き終われない。もっと深い色、魂を揺り動かすような色を求めて何度も色を重ねてしまう。そして、やがて越えてはいけない一線を迎えてしまうことがよくある。

越えてはいけない一線とは何か?それは色彩が濁ってしまうことだ。少々の濁りは作品に強さとコクを与えるが、だがこの一線をしっかりと越えてしまうと、濁りは汚れとなって、もう全体は引き返せなくなる。「汚れ」、それは私の迷いやこだわりから生じていて、画面をその前の時間に巻き戻すことはできない。

 

 

油絵であればこういう自我との格闘の痕跡が、随分と面白いマチエールとなって、画面に豊かさを与えるでだろう。しかし特に写意画の水墨画の場合、描く人も描かれる紙もその時、その時が、そのまま現れて出てくる。流れる時間の中にあって、とても「一期一会」的であり、全ては東洋の自然観のなかのにある。濁りは消すことはできない。

文字どおり水墨画というもの、その材料は水と墨で、それを画宣紙という敏感な紙の上に描く作業である。自然素材であって、それらはいずれも命を持っている。そして、その自然素材に対して、水という一番柔らかいものをなんとか制御して、描こうとするのが水墨画の本質であろう。

乾いているのに、まるで濡れているような、たとえば流れ落ちる滝の近くにいる時、衣服は濡れていないのに、周りに漂う水の小さな分子たちに包まれて、何かが洗われているような感じ、マイナスイオンを浴びたような感じを受けることがある。

願わくば、そんな初々しく、生き生きとした気韻というものを描きたい。

さて、この作品に、その気韻があるだろうか?

 

 

「ローテンブルク」という題名。

それはドイツ、ロマンティック街道の都市。『中世の宝石箱』と言われる城壁都市。

この絵は、気高い中世の騎士と鎧や旗印、そしてローテンブルクの街を一周する城壁、おとぎ話の中のように可愛いらしい建物たちとその色彩が記憶の中で、混成して出来上がった。